人が人を評価する公平性について

 

冬季オリンピックも中盤に差し掛かってきましたが、何か競技の裏側でスッキリしないことが多いですよねぇ~。
平野歩夢選手のとてつもない演技にはただただ感嘆・感動しかありませんが、ここでも疑惑の採点が行われ世界中から非難轟轟の騒ぎになっている。
平野選手が怪しい採点をねじ伏せるようにスカッと優勝したから良かったようなものの、疑惑の採点が順位に影響していたら騒動はとんでもないことになっていたのではなかろうか。

 

特定の国・選手に有利なジャッジ、疑惑の採点はスポーツ競技においては珍しくはない。
審判員を中立国の人間にしたとしてもです。

よく知られているところではボクシング。昔からよくありましたよね。
しかし今回のオリンピックほど酷く醜いことが多発すると、もはやオリンピックに平和の祭典などという綺麗事は微塵も感じなくなってしまう。
採点が祭典をぶち壊しにするとか、オヤジギャグ以下ですな。

わずか半年ほど前に自国開催であったTOKYO2020でも、開催前のゴタゴタで盛り上がりを欠いていた。
それでも競技がクリーンに進行し、選手が全力を出し切れる舞台が用意されていることで視聴者もオリンピックという世界に集中し惹き込まれていけるのです。

ところが不公平感丸出しの競技後の抜き打ちランダムなジャンプスーツチェックとか、転倒者続出のスピード系の競技の判定結果には誰が見ても怪しい忖度が働いているとしか思えない。
もしくは世界的競技・大会に相応しくない未熟な審判員しかいないのか。
失格規定が曖昧であり、期待の大きかった選手ほど責任を背負い込んでしまうのは見てる方も辛い。

応援する国や選手よりも他の選手が上を行くパフォーマンスをするのであれば納得がいく。
しかし全力を出し切ることを阻害するプレーや判定が当たり前のように横行する大会など、開催する意味・意義はあるのだろうか?

どうせIOC会長はオリンピックの中身などどうでもよく、開催に漕ぎ付けて巨額なお金が生まれてくれればそれで良いのであろう。
現地には来ているらしいが多発する騒動に何のコメントも出てこないのが、TOKYOの時と同様に他人事なのでしょう

 

人の目による採点競技は舵取りが難しいですね。
ボクシングは割と素人目にも優劣がわかりやすいので判定にイチャモンを付けやすいとも言えます。
ただノックアウトという明確な決着方法があることが救われる。

これがフィギュアスケートや体操競技のように技の難度や格付けがあったり、何回転したかとか着氷時のバランスとか一瞬の判断は審判員により誤差は出そうです。
今はサッカーや野球のような球技でもプレーを中断してビデオ判定をするようになっているし、誤審や疑惑の判定は減っているはずなのですが、何故かオリンピックでは毎回問題が起きている。
やはり「世界大会」「国の威信」という圧力が変な忖度を生んでしまうのでしょうか?

人が人を評価・採点するというのはスポーツに限ったことではありません。
サラリーマンだって毎月の給料という一見公平な待遇下で勤務先に奉仕しているわけですが、その給料の査定には他人による評価がされているんですよねぇ。
給料について不満 = 自分への評価について納得がいっていない人は少なくないでしょう。

もちろん従業員の給料・賞与は大前提として会社の業績や将来的な見込み等の要素があってこその設定であり、個人では余程突出した数字を叩き出さねば「評価された」と感じるほどの変化にはなり難い。
平野歩夢選手のように「余程突出した」結果を見せつけないと、怪しい忖度が大前提のような採点をする側をねじ伏せることは難しいのです。

努力が評価されない仕事・働き方をしていないか?

また運送業界のようなビジネスモデル自体が過去を引きずったままの利益を出せない体質の業界では、個人の評価などあったものではない。
突出したことをやろうとすれば、それは法を犯すことに直結するビジネスモデルなので、給料を抑えることがすなわち業界的に公平みたいなもの。
長時間労働・低賃金が基準点でありそれ以上もそれ以下もない競技と考えたら、競技人口など増えるわけがないことがお分かり頂けるのではないでしょうか?

社員トラックドライバーに比べれば収入も自由な時間も恵まれているフリーの軽貨物ドライバーですが、それでも10年以上経験しようが格段に配達スキルがUPしようが、基本的な報酬ベースは変わらない。
地域差こそあれど宅配の単価だって何年経ってもほとんど変わっていない。軽貨物も運送のビジネスモデルの一つだからドライバーは評価の対象とは無縁で頭打ちなのです。

ただし誰でも参加できるので軽貨物の競技人口は増えている。
とりあえずオリンピックに出れるかも(笑)みたいな軽いノリの人、結構いますから。
でも競技自体に魅力がなければブームはすぐに去る。速攻で辞める人も多いんだよねぇ。

10㎞走って報酬150円ってガソリン代より安いじゃん!

独立して改めて感じることは、自分への評価を他人に委ねている限りは心も財布も豊かにはなれないなぁ・・・と。

軽貨物の場合は完全出来高制が多いので、やればそれなりに収入が増えることには救いはある。
しかしそこには「評価」という部分がなく、収入と労働時間がいつまでも比例して平行線を辿る。

どこかで評価点が加わり単価がUPするとか、効率良い仕事に代えてくれれば収入と労働時間のバランスも改善することが出来ますけど、サラリーマンや単なる委託の立場では所詮他力本願。
自分で報酬・労働時間や心地良さをコントロールすることが出来れば、他人に評価される世界から解放される。
これすなわち不要な競争からの解放でもある。

オリンピックから国別対抗やメダル表彰を無くせば怪しい採点や偏ったルールも無くなるでしょう。
しかしそれはIOC会長は許さない。お金を生む大会ではなくなってしまうから。
選手のモチベーションが下がるなら問題ですけど、ひたすら自己最高を追求する「場」「栄誉」があれば余計な駆け引きなく自分の人生を全うできたりしないかなぁ。

会社員ならテレワークも出社もOK。残業・休暇は自由だが手当は無し。査定はAIにより年齢性別学歴関係なくオープンで。
でもまだまだ上下関係好きの縦割り組織の日本ではこんな働き方は逆に受け入れられないか。
事なかれ主義だからなぁ、日本人は。

評価する側とされる側、貴方の人生はどっち?

やっぱり誰かに評価されたいですか?例え不公平が存在しても。
私は10年以上誰からも評価されない生活ですけど、全く問題なし。勝ち組ではないですが快適この上ないです。
ボーナス評価のために取り繕っていた時代が懐かしい・・・

他人の評価を得るために作る数字は所詮偽物。自分のために作る数字こそが真の評価に値する。

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