自分史を画く・書く・描く

日本語って味わいありますよね。
一つの漢字で音読み・訓読みがあり、文脈の中でもいろいろなニュアンスで読み手が受け止めることができたり・・・
外人さんで日本語を日本人以上に上手に使い回すことができる人って、ホントに凄いなって思います。
自分が多国語を自由に操るなんて想像もできん!

 

幼い頃はさすがに文法やら表現が難しいので、せいぜい自分の名前を憶えて書くぐらい。
そして一般的には表現方法としては「絵」を画くことからスタートしていると思います。

幼少の頃、どんな絵を描いたか覚えていますか?

 

結構皆様の親御さんが保存してくれていることが多いのでは?
なかなか我が子の作品は捨てられませんから。
特に幼少期の作品は本人にとっては歴史的に価値があると思うので残しておいてくれた親には感謝しないと。
その作品が皆様のルーツになるのですから。

まあ幼少期の絵は大抵、お日さま、お花、お家と定番がある。
基本は動きの無いモノが題材となっています。
そこに各人の感性的要素として色使いの妙が加わる。

少し進歩してくると人や動物、車などの動きがあるモノを自分の中でイメージ化できるようになってくる。
でもまだまだイメージを表現する力が未熟なため、タイヤが2つしかない車だったり足が3本の犬だったり
目が一つしかないお母さんだったり(怖)

自分がこんな絵を画いていたなんて信じられないでしょう。記憶にねーし(-_-;)
逆に今これと同じ絵を画けといわれても、常識やら周囲の目を意識した小賢しい見栄が邪魔して素直な作品は出来ないでしょう。

幼児教育には発達段階に応じて子どもに何が必要かを観察することが求められています。
子どもの画いた絵にも様々なヒントが隠されており、それをスルーしてしまうことで発育上に問題を引き起こしてしまうことがあるそうな。

だから自分の内面にあるものを正直に発信した幼少期の作品は貴重なんですよね。
いくら今現在、肩書付けて知ったような偉そうなこと言ってても、自分の人生初期の作品観たら少しは謙虚な気持ちになれるのではないか?
今のオマエは常識を着飾った見栄まみれの偽善者だと。
結果的に貧富の差があったとしても人間なんて本質的には同じなんだと。

一時期、画一的国民性を指摘されていた日本人にも、個性・自主性を重んじるモンテッソーリ教育が浸透してきて、ワールドワイドに対応できる人材がチラホラと出現してきたのは良い傾向か。
世界ではビル・ゲイツやジェフ・ベゾスのようなビジネス成功者の多くはもとより、日本でも将棋の藤井聡太氏などもモンテッソーリ教育を受けています。

幼少期のように見ること聞くこと全てが新鮮で素直に吸収できる時期の過ごし方というのは、大事にしてあげたいものですね。

 

小学校に入ると読み書きを本格的に習っていくことになります。
幼少期の自己表現が「絵」が主体だったのが、これからは「文字」へと変わっていきます。

「絵」の表現では見る側それぞれに解釈を任されるので多少曖昧な表現でも許されていたものが、「文字」での発信となるとかなり具体的なものが要求されます。
誤字脱字は書き手側の能力を疑われますし、読み手に端的に伝えるセンスが大事になる。

つまり「書く」という自分の作品に意図的な加工をする必要が出てくるのです。
ただ思うがままに画いていれば相手が喜んでくれた幼少期から、今度は相手を満足させるテクニックみたいなことを学び磨かねばならない嫌なステージになっていく。
通信簿みたいな他人が自分を評価することにつまづいてしまう子も出てきます。

もうおわかりでしょうが、この頃から「ストレス」というものが発生しているんですね。
「相手のため」という要素がハードルが上がるにつれストレス強度も上昇する。
自主的な「相手のため」というスタンスを超えてくると、義務とかプレッシャーに必要以上に押し潰される子どもは出てきます。
いや、子どもだけではなく大人だって仕事や生活上の問題で押し潰されることは珍しくないですよね。
特に子どもの世界ではあらゆることが「いじめ」へと繋がる危険性がありますから、「相手のため」というボタンを掛け間違えることを恐れるのは尋常でないプレッシャーでしょう。

このように「画く」から「書く」へのたった数年間の短期間で人間としての基礎がほぼ固まりつつあるというのは少々問題に感じます。
この辺が日本が画一的と呼ばれる一つの原因なのでしょうけれど、一体現在の6・3・3・4年という教育制度はいつ出来たものなのでしょうか?

最近成人年齢が18歳に引き下げられましたが、同様に教育制度も見直した方が良い部分もあるのではないでしょうか?
現行の制度についていける子いけない子がいるのはある程度やむを得ないとは思いますが、学年の壁を越えた教育法があっても良いのでは?と思ったりする。
先のモンテッソーリ教育にヒントはたくさんあると思うのです。

これまでの「画く」「書く」というのは主に過去についてのお話でした。
ただ激動の時代を生きる私たちは過去を振り返ってばかりもいられませんね。
そこでこれから私たちに必要なことは「描く」です。

「画く」「書く」は具体的な行動であり、その作品を実際に目で見ることが出来ました。
人生3番目の「描く」は想像力の世界。未来へ向けての各人なりの回答となるものです。
そこには正解は無く、夢で終わることもあるし実現することも可能。
ただしどれだけ「描く」力があるかは大事。

どうせ俺の人生なんてつまらないんだよっ!と投げやりな人と、まだまだ自分の伸びしろ・可能性を信じれる人とでは、描き上げる作品も違ってくるでしょう。
夢・希望を持っている人の「描く」力は年齢関係なくエネルギッシュ。
逆に言えば「描く」力が衰えてくるとヤバい!

スマホ・タブレット・パソコンの普及で「画く」「書く」作業は筆記具が無くても可能になりました。
この作業上の肌感の違いがどれだけ人間の感性に影響を与えたか?
便利にはなったかも知れないが、感性が豊かになったとは思えない。

しかし「描く」という部分においてはスマホもパソコンも立ち入ることが出来ない、「脳」の中での作業。
イメージしたモノを具体的に可視化するのはパソコンが役に立つが、作品を生み出すのはあくまでも各自の「脳」であり希望です。

痴呆症・認知症を予防するためにも常にほどよい刺激は必要です。
「画く」「書く」「描く」は安上がりでどこでも手っ取り早くできる刺激作業です。
たまには自分の人生を振り返ってみて、「画く」時代、「書く」時代、そしてこれから「描く」時代を自分史として体系づけてみてはいかがでしょうか?

自分史の最後はいったいどんな終わり方をするのでしょうかねぇ?

 

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