30年後の自分

誰にも見られず知られず次のステージへ

別ブログにて先にお伝えしましたが、ほんの数日前に父が他界いたしました。
つい10日ほど前には笑顔で会話していた父が、数日後には帰らぬ人に・・・
誰も臨終に立ち会うこともできず、たった一人で誰にも知られぬこともなく去っていくなんて本人も想像もしていなかっただろう。
高齢化社会。老人の独り暮らし。そして孤独死。
全く他人事ではない。明日は我が身だぞと物凄い現実を見せられた。

父は91歳だった。
昭和の時代だったら大往生と言われていただろう。
私より29歳上。最後はまさに老々介護と言っても良い関係であった。

多くの人がイメージする身内の最期ってどんなシチュエーションを想像するだろう?
病院のベッドの上、駆けつけた家族が見守る中で安らかに息を引き取る、そして医者の無感情な宣告・・・
私も身内が最期を迎える時はそういうイメージしかなかった。

父も足腰は弱り狭心症の疑いが見られたので医師は入院を勧めた。
ところが父は頑なに入院を拒んだ。
最期は自宅で好き勝手して過ごしたいと。

住み慣れた家、街、いつまでも感じていたい

家の中でもよく転倒するほどに足腰は日に日に衰えていった。
それでもちゃんと自炊はするし近所の方々と話をするのが楽しいようだ。
まあ入院してしまえば体は楽だろうが心は楽しくないということなんだろう。

もし自分が生死に関わるような持病があったらどうするだろう。
入院すれば誰かしらの目があるので、何かあったらすぐに助けてもらえる。
たぶん入院して少しでも長く生きることができそうな選択をするかなぁ。

お金に余裕があるなら介護付き老人ホームという選択がベストになるのだろうか?
誰かに見守られつつ自分の時間・行動も確保できる。
まあほんの一握りの恵まれた方のお話ですね。

ただでさえ老後に必要なお金は最低でも2千万円とか騒がれているのに、介護付き老人ホームに入ろうと思ったらその何倍ものお金が必要になる。
私たちは老後を意識すれば生活の全てを労働に費やし、ようやく少しの貯えが出来た頃には身も心もボロボロ。
楽しいことを我慢し心身を擦り減らした状態で2千万円抱えて人生の最終コーナーに辿り着いたとして、本当にそんな人生で良いのだろうか?

ゴロゴロするのが幸せだし楽しみ

発見した時の父の姿はまさに死の寸前まで生きていた(当たり前だが)という生々しさがあった。
ベッドに横たわろうとした途中で意識が無くなったのだろう。半身で片足はベッドの上、片足はベッドの外。
靴下も片足だけ履いていた。脱ぐ途中だったか、履く途中だったか。

苦しくて転げまわった挙句の中途半端な姿勢ではないということは、驚くほど安らかな何か安堵したような表情が物語っていた。
赤ちゃんが何かを食べながら寝てしまうみたいな、絶対に苦しんだ最後ではなかったという顔が私には救いだった。

父のそんな最後の姿を見て、私はすぐに古代ローマ時代の都市ポンペイとベスビオ火山の話を思い出した。
西暦79年に起きた実話で、ベスビオ火山の突然の大噴火による火砕流がポンペイを襲い一瞬にして都市は飲み込まれ、逃げる間もなく人々の生活は止まった時間のまま遺跡として人の形の空洞として発掘されている。

栄えていた都市が一瞬で!富士山だっていつまでも黙ってない?

「生活が突然切り取られる!」
そんな表現しか浮かんでこないような、何かをしている途中で時が止まったままの風景を後から来た者が見ているという感じ。
病院のベッドで横たわったまま死を迎えるようなスパンではなく、まさに瞬間が切り取られ静止画として目にしている。

本人としてはまさかここで突然人生が終わってしまうとは・・・という場面だったのでしょう。
いきなり人生のジ・エンドを迎えるって何か嫌ですよねぇ。
トイレでいきんでいる時とか如何わしいサイトを見ている時とか・・・

もし後5分でジ・エンドになるとわかっていたらそれなりに最後の決めポーズを考えますよね?
しかしいきなり自分の人生がストップし、そのストップした状態・画像を誰かに見られるって嫌だなぁ。
ということは常に自分の最期がいつどのように訪れても大丈夫なような振る舞いを心がけていないといけないのかぁ。

自分の最期はどうしたい?最期ぐらいは自分らしくいたいなぁ

自分は後何年生きられるだろうか?
父の歳まで生きるのはちょっと自信が無い。先進的医療とテクノロジーがどこまで進化するかにもよるだろうけれど。
例え後30年生きることができたとして、その時自分はどんなになっているだろうか?

90歳を超えて独り暮らしとか自分はできるだろうか?
誰にも知られずジ・エンドを迎える恐怖に耐えられるだろうか?
父は入院なんかしたくないと強情を張ってはいたけれど、本当は独りは寂しかったんだろうなぁ。

カウントダウンの間でも出来ることはたくさんある!

歳を重ねると本当に時間が惜しい。時間の価値観が日に日に大きくなる。
残された時間がどんどん減っていくことを衰えていく肉体が訴えかけてくる。

子育てに学び、介護に学び、そしてAIにも学ぶ。
そんな様々な学びを30年後の自分にどう生かしていけるのか?

病院寝たきり退屈コースか?自宅突然孤独死コースか?まさかの介護付き施設暮らしか?
たぶん30年後の世界は我々が今想像できるような世界ではなく、病院だろうが自宅だろうがAIによる監視が一般的になっているでしょう。
しかしAIに監視されることが果たして孤独感を薄めることに繋がるだろうか?

瞬間、瞬間に意味がある。その連続が貴方の人生を構成している

人は瞬間の中に生きることの連続。
だから一瞬一瞬を大事にしていくことが自分を豊かにしていくことなのだろう。

父の最期の無言の姿が私に教えてくれた。
今まで、ありがとう!

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