因果と輪廻

人の運命は生まれた時から定められている?
久しぶりに自宅で過ごす日曜日。
この数週間はまさに近未来に起こり得る出来事を疑似体験したような日々だった。
人が亡くなるとはどういうことか?
そこで何が起きるのか?
身内に課せられた法の縛りとは?
文字・言葉で見聞きするのと、自分が目の当たりにするのとでは全く別世界。
「百聞は一見にしかず」とはよく言ったものだ。
たまたま私が長男であり父の家の近くに住んでいることもあって、施設に入所している母の世話も含めて近親者を代表するような形で面倒を見ている。
もし私が自由の利く軽貨物ドライバーという働き方をしていなかったら?
もし私が親と離れた場所に住んでいたら?
もし私が長男でなかったら?
様々な因果が今回の親と自分の役割に結びついている。
これは私に限ったことではなく、誰にでも何かしらの因果で将来や運命が決まっていくのだろう。
今の職に至る経緯もそうだし学校も塾もそう。
友人やら結婚相手やら先輩・上司等の人間関係だって、全くの偶然の出会いのようで実は張り巡らされた因果の一つに過ぎないのかもしれない。

何をどうやっても自分を変えられないとしたら悲しいなぁ
そう考えると自分の進路などあれこれ悩み考えすぎても意味が無くなってしまう。
極論すればどうジタバタしたって行き着く先は決まっている。
まあ生物は最後には命尽きるし、形あるものはいつかは壊れ分子原子に戻っていく。
たった数十年数百年の輪廻の中の一コマなんだと。
なんかそれで片づけてしまっては元も子もないというか、今存在している自分は何なんだと。
確かに無気力に敷かれたレールの上を辿っているだけみたいな生き方をしている人はいます。
それは自分がそうしたくてしているわけではなく、どうにもできないからそうするしかないという境遇の人もいるでしょう。
それも因果なのかもしれないし何をやっても結果は同じなのかもしれませんね。
でもそれでは人生はつまらな過ぎる。
単調な自分の人生に何か一つ、隠し味というか調味料を加えて変化を起こすことはできないだろうか?
「どうせ私の人生こんなもの」と半ば諦めかけているなら、開き直ってみるのもありかなと。
運命に抗うことで見えてくる景色もあるかも。

遺品整理の第一歩は故人との思いが詰まった形見分けから
今回の親の突然の死で後片付けを全て任された(押し付けられた?)立場としては、もう目の前は困難しか見えてこない。
特に葬儀やら法要やら遺品整理から各種解約手続き、賃貸住居の立ち退きにかかる費用的なものは頭が痛い。
他人の負債を突然背負ったような状況ですから、自分都合で抱えたローンなどとは訳が違う。
「ご返済は計画的に!」などとCMのような甘ったるい状況ではない。
これも因果と凹んでいる場合ではない。
この状況に自分なりの隠し味をどう加えて事態を動かしていくか?
そこで遺品整理という出ていくお金を収入に変えていくことを考えた。
とにかく家電や家具、衣類などをどう換金していくかが取り急ぎの危機を救う道。
だが普通に考えてしまうと買取を謳う遺品整理業者に任せたくなってしまうが、何せ相手は足元を見て安く買い叩いてくるのが目に見えている。

自分の生活で精一杯なのにこれ以上は無理なんだよぉ!
幸い父は地元の自治会と懇意にしており非常に交友関係が広く深く、弔問客も多かったことからアイデアを思い付いた。
不謹慎に思う方もいらっしゃるでしょうけれど、自治会や近隣住民の方にフリーマーケットのような遺品整理会を提案してみたらこれが大盛況となった。
特に大型家電を欲しがっている方が想像以上に多く、50インチの4kテレビや冷蔵庫、電子レンジ等は自治会の集会所等で使うからと住民たちで運んでいき、それぞれに想定外の金額を頂きました。
またクーラーも自分で取り外し・設置ができるという人が自宅用に使いたいと、これまた結構な金額を頂き引き取っていただきました。
扇風機、照明器具等の小型家電や衣類・食器類等の生活用品も、アッと言う間にお気持ち程度の投げ銭みたいな気軽さで引き取っていただくことができた。

誰かにとってお金を出してでも欲しい価値のモノはある
一つ一つは少額でもチリもツモればでナント10万円近い売上となった。
もちろん遺品の年式や程度が良かったということもあるけれど、業者に買い取らせたら絶対こんな金額にはならない。しかも整理する遺品が大きく減ったおかげで業者に払う費用も当初の見積もりの半分以下に減り、ナントトータルで数万円の黒字に!
私以上に本好きであった父の多くの蔵書もブックオフの宅配引き取り買取に出した。
こちらは現在査定中で後日振り込まれるので、葬儀費用の足しにはなる。
お世話になった自治会や近隣の方々に喜んでいただき、父も遺品を廃棄せずにご近所で活用してくれることを喜んでいるでしょう。
遺族としても遺品整理にかかるお金の不安を解消することができ、まさにWIN-WINの関係に。
もし自分が常識に凝り固まって相見積もりで一番安い業者を使うことしか思いつかなければ?
もし自分が非常識という世間の目を恐れてコソコソと遺品整理をしていたら?
持ち出し費用で結構なダメージを食らっていたでしょう。
それだけは父も望んでいないはずなのでまあ一つの山を越えたことは良かった。

父の日がまたやってくる。もう孝行はできないなぁ・・・
遺品の即売会など世間から後ろ指刺される行為だったかもしれませんが、経済的弱者としては背に腹は代えられない。
父の性格を知っていたから出来たことだと思っているし、恨まれることもないのがわかっている。
父の暮らしていた自治会も高齢者が多く毎月のように誰かがお亡くなりになっているのだと。
その都度悲しんでいても仕方がないので、最近は住民総出でお見送りするのが恒例になっているようです。
これは一部地域ではなく日本のどこでも増えていく高齢化社会では避けられない問題でしょう。
残された遺族もただ言われるがままにお金を払うばかりではなく、少しでも負担を減らす工夫を予め考えておいた方がよい。
遺言もそうだしエンディングノートもそう。
そして遺品整理にはご近所さんの協力も大きな力となる。

因果と輪廻がわかっていれば、準備することも決められる?
「そんな準備、まだ生きているのに不謹慎だろ?」
「例え望まれても遺品をご近所に売るとかありえねぇ」
そういう変な正義感、常識がますます生活を窮屈にしているとは思いませんか?
自分の生活を削って10万円単位で用立てできるならそうすれば良い。ただ誰もがそうできないから苦しんでいる。
冒頭に出てきた因果と輪廻。
親を亡くすのもお金がないのも誰にでもあり得る状況だしやることも繰り返される。
ただそのような同様の環境の中でもちょっとした工夫と行動で、自分を助けたり周囲の人間を喜ばすという味付けが可能になる。
ただし世間の変な正義感や常識が邪魔をするということもお忘れなく。

仏壇を置ける家に引っ越すか?この問題はヤバいぞ!
遺品整理は目途が付いたが更なる問題が立ちはだかってきた。
仏壇を置くスペースが我が家には・・・ 無い(-_-;)
さすがに仏壇だけは売ろうとも思わねーし、他人の仏壇を買いたいという人もいねー。
遺族の方々はこういうケース、どうしているのだろう?
さすがの非常識人間の私でもレンタルBOXとかに祀るわけにはいかん。
もし家の中に設置するスペースが作れたとしても、方角とか向きとかあるみたいだし好き勝手に置いてよいわけではなさそう。
やはり常識に苦しめられることは避けられない・・・