目指すは裕福?幸福?

裕福なら必ず幸福?幸福は必ず裕福でないとダメ?

暗号資産交換業大手のFTXトレーディングが米国の連邦破産法11条の適用を申請したことが大きなニュースとなって飛び込んできました。
暗号資産交換業とはわかりやすく言えば仮想通過取引所であり、日本ではコインチェックやビットフライヤーがCMで知名度が高いと思います。
今回の騒動は日本に例えるなら大手銀行や大手証券会社の一つが顧客資産を勝手に私的に運用したようなもので、当然このようなことが発覚すれば信用不安が高まり口座の解約や資金引き上げが集中し、資金難に陥り破産に至るのは免れない。

そもそも暗号資産自体が現物を伴わない仮想通貨であることから、投資家と言われる人々の中でも敬遠している人は少なくない。
投資ではなく投機の対象として見ている人が多く、好奇心の強い一攫千金を狙うような方々には魅力的な商品なのでしょう。
まあ労せず数か月で生涯収入を得られるかもしれないのは宝くじ同様、「夢」があるとも言えますけどね。

ただ価値(価格)の上下動が激しく、ビットコインなどはピークで売り抜けられた人は「億り人」などともてはやされましたが、下落トレンドが続く中では売るに売れず、税金の恐怖をも背負っている状態。
いつかは上昇すると信じる姿は投資の世界で失敗する典型的なパターンか。

暗号資産は裕福への近道?

「裕福」と「幸福」という表現がある。
大雑把に言えば似たようなものだし、どちらになっても凡人には幸せに違いない。
一度はそういう状態になってみたいもんですなぁ。

2つの背景を細かく観察していくと・・・

「裕福」は経済的に満ち足りた状態と言えましょう。
お金に困っていない、生活に困っていない状態。
一般人には羨ましい限り。もし裕福な状態になったら「労働」から抜け出すことも可能。
好きなことだけして生きていけるなんて、憧れ以外の何物でもない。

お金に困らなくなった = 働かない・何もしない = 人間ダメになる と決めつける人がいますけど、それは人それぞれでしょう。
必ずしも誰もがその堕落パターンに陥るとは限らない。それどころか収入や生活を気にせず本当に自分がやりたいことに時間を投資できる喜びは想像するだけでもワクワクしませんか?

今日は美味いもの食って映画観てコンサートにも行くのだ。

毎日目覚まし時計に叩き起こされて、辛い通勤を経て同じ時間同じ場所に集まって夜はクタクタになって帰宅し、唯一のくつろぎであるくだらないテレビを観て晩酌して寝るだけの日々の繰り返し。
それが目覚まし時計の世話にならないだけでもストレスは相当減るし、自由に行動スケジュールを立てお金を気にせず食べたいものが食べられる。
これこそ人生の集大成にしたい憧れの生活。

でもこの憧れの生活も自己管理のできない者にとっては長く続かないし、奈落の底へ一直線コースにもなり得ます。
よく「宝くじに高額当選した者の末路」みたいな話を聞きませんか?

身分不相応なお金を手に入れると気持ちが大きくなり、金持ちになったと勘違いし世間体を気にしだす。
別に欲しくもない物でもブランド志向で金をかける。
食事も食べたいものより有名店や高額メニューを優先し、SNS投稿するなどして承認欲求が高まるのも特徴。

「裕福」はどちらかと言うと、他人に誇示したい部分が大きそうですね。
お金があることの優位性、他人を意識したお金の使い方・・・
そこに嵌っていけば確かに長くは続かない。
よっぽど永続的に収入が入るシステムでも持っていれば別なのでしょうけれど、ちょっと人として尊敬はされない方向に行ってしまいそうですね。

お金より時間を使えることが私の一番の幸せ!

一方、「幸福」というのは一番に「精神・心」が満たされた状態ではないでしょうか。
そこには例え金銭的に恵まれていなくても、豊かな何かを得ていることに幸せを感じられる。

「裕福」はある程度のお金・資産がある状態としてわかりやすいですが、「幸福」はその定義がひとそれぞれで違ってくるので他人が評価するのは難しい。
「裕福」は「幸福」の一つの要因になり得るが、「幸福」だから「裕福」であるとは限らない。

「幸福」というのは個々の感じ方によるところが大きいし、他人がどうこう口を挟むことでもない。
生まれつき貧しい環境に置かれて育ってきても、周囲の人々に恵まれお金が無くても楽しい経験を積んでこれたなら、それはその人にとって幸せなこと。

スタート地点が低ければその後は「楽しい」「幸せ」と感じることが増えるかもしれません。
どん底を知っている者ほどいろいろなことに感謝できる素地はあるし、「幸せ」をキチンと感じることができるのは成長において重要なこと。
「幸せ」を他人にも、という行動や姿勢は共感を呼びやすく応援したくなる。

豪邸に住み高級車を乗り回すのが当たり前の環境に育ったら・・・

例え裕福な家庭に生まれて来たとしても、親の教育がズサンであったりすればせっかくの「裕福」の利点が子に還元されていない。
裕福な家庭のお坊ちゃまを「ボンボン(坊々)」と呼んだりしていますが、やはり経済的に苦労を味わうことなく育ってきた者はどこかそういう雰囲気をまとっていることがありますよね。

たぶん本人にとっては「裕福」に育ったことが当たり前であり、それを幸せなこととも思っていないでしょう。
それは別に悪いことではないでしょうけど、社会に出て貧富の差や様々な格差を目の当たりにした時に「幸せとは何ぞや?」と思ってくれるのだろうか?

「裕福」とは金銭的リッチ。「幸福」とは精神的リッチ。
「裕福」は外部的評価が伴う。「幸福」は他人には関係なく己の感じ方。
2つ手に入れれば素晴らしいのですが、一般人が手に入れられそうなのは「幸福」というのはわかりますよね?

何に幸せを感じます?

ではとりあえず金銭問題は外して「幸福」になるにはどうしたらよいか?
それには自分がいつまでにどこでどうなりたいのか?を整理できていなければならない。
ただ漠然と日々を過ごしていても、何が自分にとっての幸せなのかが理解できてない。
今までがそうだったではありませんか?

「昇進した」「ボーナスもらえた」というのも幸せなことかもしれません。(最近は昇進を喜べない風潮もある)
「結婚した」「子供ができた」というのは結構大きな幸せでしょう。(その後の経済的苦労を考えなければ)

よくよく振り返ってみれば私たちは多くの「幸福」を経験していることに気付きます。「不幸」も経験していますが。
不平不満愚痴嫌味は簡単に口から出てきますが、幸せなことについては意外に忘れていたりする。

もし自分が「裕福」であったなら、今と何が変わっていたと思いますか?
「幸福」を感じた時、どんな感謝の心を持ちましたか?それは今、活かされていますか?

悟るのじゃ!オマエに相応しい幸せは何なのかを!

人は何のために生きているのか?
その目的の一つとしては、「裕福」になりたい、「幸福」になりたい、というのが必ずあると思います。
ではそれを成就するにはどうしたらよいのでしょう?

人類永遠のテーマですな。

「裕福」は自力では困難かもしれないが「幸福」はやりようはある。
ここにヒントがあるのです。
「裕福」はいかに他力を利用するか、「幸福」は何事にも感謝の気持ちを忘れないこと。

何でも自分が頑張ればいいってもんじゃない!
可能性は自分を超えたところにあったりする。

 

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