闘う相手を間違えるな!

 

 

 

 

 

 

 

 

皆様は今、何と闘っていますか?

ローン?、試験?、ノルマ?、ハラスメント?、睡魔?
そして最近ならコロナウイルス?

闘う対象は時と場合によって変わったりしますよね?
しかしその対象は本当に闘うべきものなのでしょうか?

 

そもそも闘う相手の定義とは何なのだ?
闘うとはどういうことなのだ?
闘う理由は何なのだ?

 

闘うということには常に「負けてはならない」というストレスがついて回る。
そのストレスを克服できる者には闘いは成長の場として欠かせない役割となるだろうし、逆にストレス耐性が弱い者には闘いは敗者のステージという意識が植え付けられてしまう。
闘う前から常に弱気になるような人はストレス耐性を疑った方が良いかもしれません。

そんなストレス耐性の弱い人でも闘い方次第では克服できることもある。
それは、闘う相手を間違えない こと。

当たり前のようなことですが、意外に実践できていない人は多い。
競争社会と呼ばれる現代ですが、いつの間にか望んでもいない競争=闘いの中に巻き込まれていませんか?

子供の頃に習い事や塾に通っていたことは誰にでもあると思います。
ほぼ親の方針で何かしら始めたとは思いますが、実はその頃から競争=闘いの世界を経験しているんですね。

決して経済的余裕のない世帯でも、親は子供に世の中で闘える「武器」を身に着けさせようという親心で習い事や塾へ通わせているのだと思いますが、すでにこの頃にはストレス耐性の強弱は見てとることが可能になったりしています。

集団社会の中のストレス要因としては「人間関係」というのは外せませんね。
学校や塾、会社等では、子供も大人も人間関係という闘いの中に身を置いている。
結局は人間は個性の集まりですから、個性間の調和が崩れれば途端にストレス空間となる。

上手く他人との距離感を保ち、良い意味でのマイペースを維持できればストレスも少ないのですが、どうしても人は競いたがり比べたがる。

教師や上司などがテストや査定という「点数化」した優劣をつけるのは、あえて競争を発生させ人としての成長を促すためでもある。
しかしその意図がキチンと伝わらなかったりやり方を間違えてしまうと、生徒や部下たちは歪んだ競争・闘いを強いられ精神を病んでしまう者も出てくる。
その結果、鬱になったり将来を悲観して自ら命を絶ってしまうという悲惨な結果さえ生む。


そうなる前に、「競争」や「闘い」はある程度仕方のないことと受け止める一方で、競争相手や闘い方をストレスの少ないものに変換する工夫が現代を生き抜いていくために必要となってくる。
見栄を捨て、ハードルを低くすることも選択肢として持っておくと道は開けたりします。

もし皆様のお子様が学校で苦しんでいるのを察したなら気持ちを軽くするアドバイスを!
子供たちはまだ自分をコントロールする引き出しが少ないですから。

良い意味での鈍感力

そこで冒頭の「何と闘っていますか?」という分析に戻りましょう。
自分の能力に対して闘う対象が相手として相応しいかどうか。

闘う相手が「人」の場合、単純に能力的な問題であれば切磋琢磨してお互いに「ライバル」という関係でいられるでしょう。
ところが社会人となると「高め合う」ことより「削り合う」という表現が相応しいような、足の引っ張り合いみたいな闘い方になったりする。

この情景を見事に表現しているのが、サザンの「闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて」

人と闘うというのは、誰かが傷つく・・・
中高年の皆様は身に染みているのではないでしょうか?

しかしこの闘いの中に身を置いているのは結局は自分の選択によるもの。
本当に耐えられないなら逃げ出せばよい。しかし逃げ出せないのは何故?
もはや闘いではなく奴隷と化してはいませんか?

では闘う相手が人ではない場合。

例えば試験とか資格をクリアしようと悪戦苦闘している状況。
高校や大学の入試というのは人生で初めて本格的に何かと闘った姿かもしれませんね。
卒業試験や卒論というのも一応闘ったことにはなるのかな?

学びごとの闘いは人によっては社会人になってからも続きます。
語学力が求められる仕事であればTOEICで800点以上とか、経営的視野を求められる仕事ならMBA(経営学修士)取得とか。

特に就職してからこれらの資格を取得する場合は、今度は「時間との闘い」が待ち受けている。
本業が勉強であった学生時代とは違い、ハードな仕事を続けながら勉強という睡眠時間を削るような苦しさが待ち受けている。

ただしこういう闘いの相手は自分になる。
他人との闘いと違うのは結果はあくまでも自己責任であり、勝利した時は純粋に喜べるところ。
接待や忖度といった人との闘いに付き物の小賢しいテクニック抜きに勝負できるのは清々しい。
できれば自分との闘いをベースに膨らませていくと人生は有意義になるのかなと。

何かと闘う理由が明確なら結果についても納得がいく。
避けたいのは闘う理由がハッキリしないこと。誰かに指示されるとか昔からの慣習に従わされるとか。
やらされ的に闘う状況は絶対に上手くいかないし長く続けられない。
そんな状況を我慢していることに早く気付き抜け出すべき。

そして闘う対象が自分の能力や許容範囲とかけ離れていないこと。
入社して急に会社の方針が変わったとか、事務員だったのがノルマ付営業職になるとか。
そのうちファイティングポーズすら取れなくなる典型的な闘いになる。

学生には社会人の闘いがどんなものかをイメージするのはまだ難しいかもしれません。
ブラック企業に就職してしまっても、キツくても苦しくてもそれが就職だ、働くことだ、と勘違いすることも社会勉強とも言える。
しかしそれは闘う相手を間違っているし、そもそも自分との闘いも出来ていない。

不毛な闘いは人生の無駄な消費。

まず自分が闘う対象は何かを明確にすること。
闘った結果は自分にどれだけの価値をもたらすか?

これを考えずに無闇に闘うべからず。
そして一番闘うべき相手は自分自身であることを知っていれば、努力や決断に生かされるはず。

決して闘わされるのではなく、自分の意志でしっかり闘いましょう!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です